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自然崇拝の島の神社巡り
自然崇拝の島であり、実は45ヶ所もの神社が点在する沖永良部島。多くの神社では島の英雄や、石・植物などエリア一体をご神体としてお祀りしています。
神社周囲の植物などを楽しみながら自然散策の一環で巡るのがおすすめです。
以下記事ではそれぞれの神社の由来などをご紹介します。
監修:先田光演氏
※島の御朱印に関しては本ページ末尾にてご説明しています。
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1 岬神社(岬大明神)
沖永良部島の守護神になった大漁石を祀る神社
沖永良部島の最東端に位置する神社で、社殿は無く、海の神を祀る丸い自然石がご神体となっています。
海のはるか向こうには神々の住むニライカナイという楽土があると言われており、島の守護神として地元の人々に信仰されています。 伝説によると、そのむかし国頭集落に住む漁師が海の中で光る石を見つけ、それを枕にして寝たところ、大漁となる夢を見ました。その夢を信じて漁に出てみると、翌日本当に大漁を得ることができたため、この石を御神体として神社を建立し、祀るようになったと言われています。するとそれ以降は米も豊作となったため、漁猟、海上安全、五穀豊穣を祈る神社として、現在も地域の人々に大切にされています。
このような信仰の対象となっている岬神社では、かつては多くの島民が参加する奉納相撲大会が開催されていました。今も元旦の初日の出の時には、拝賀式と呼ばれる行事が行われ、地元の人々が集い、神社で新年の祈りを捧げています。
また、旧暦9月15日には十五夜祭りが開催され、各家庭から料理を詰めた重箱やお酒などを持った人々が集います。このような屋外での宴席行事は奄美地方の伝統的な風習で一重一瓶(いちじゅういちびん)と呼ばれ、地域の絆を深める大切な時間となっています。
海沿いに建てられた岬神社の境内からは太平洋を一望することができ、隆起サンゴ礁によって形成された独特の地形を眺めることもできます。また、岬神社を過ぎ、島の先端方向に少し進んだ場所にはかわいらしい灯台もありますので、ぜひ神社と一緒に巡ってみてはいかがでしょうか。
海のはるか向こうには神々の住むニライカナイという楽土があると言われており、島の守護神として地元の人々に信仰されています。 伝説によると、そのむかし国頭集落に住む漁師が海の中で光る石を見つけ、それを枕にして寝たところ、大漁となる夢を見ました。その夢を信じて漁に出てみると、翌日本当に大漁を得ることができたため、この石を御神体として神社を建立し、祀るようになったと言われています。するとそれ以降は米も豊作となったため、漁猟、海上安全、五穀豊穣を祈る神社として、現在も地域の人々に大切にされています。
このような信仰の対象となっている岬神社では、かつては多くの島民が参加する奉納相撲大会が開催されていました。今も元旦の初日の出の時には、拝賀式と呼ばれる行事が行われ、地元の人々が集い、神社で新年の祈りを捧げています。
また、旧暦9月15日には十五夜祭りが開催され、各家庭から料理を詰めた重箱やお酒などを持った人々が集います。このような屋外での宴席行事は奄美地方の伝統的な風習で一重一瓶(いちじゅういちびん)と呼ばれ、地域の絆を深める大切な時間となっています。
海沿いに建てられた岬神社の境内からは太平洋を一望することができ、隆起サンゴ礁によって形成された独特の地形を眺めることもできます。また、岬神社を過ぎ、島の先端方向に少し進んだ場所にはかわいらしい灯台もありますので、ぜひ神社と一緒に巡ってみてはいかがでしょうか。
住所 | 〒891-9223 鹿児島県大島郡和泊町国頭 |
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アクセス | 沖永良部空港から車で約5分/和泊港から車で約17分 |
2 琴平神社(金毘羅神社)
安全祈願の神様を祀る神社
3 菅原神社
学問の神様、菅原道真を祀る神社
4 高千穂神社
高台から和泊町を一望、趣のある神社
1869年(明治2)に全島民の氏神として建立されました。高台にあり和泊の街並みと海を一望することができます。キレイに整備された神社は、お正月になると多くの参拝者で賑わい、境内にある土俵では、例大祭の一環として、子どもの健やかな成長を祈願し、地元力士が島内の乳幼児を抱いて土俵に上がり四股を踏む、奉納土俵入りが行われています。表の入口は高台の下にあり、階段で上って神社へ行きます。また裏口もあって、こちらなら高台からそのまま神社へ行くことができます。階段を上って行く表の入口の方が、趣があって良いかもしれません。神社としては「国家祭祀型」に分類されます。
住所 | 〒891-9112 鹿児島県大島郡和泊町和泊1059 |
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5 世之主神社(居城跡)
古の時を超え、世之主が見た景色に出会う場所
今から600年以上前の14~15世紀ごろ、現在の沖縄県は「北山」「中山」「南山」の三つの勢力に分かれて覇を競っていた三山時代でした。その頃の沖永良部島は北山の支配下にあり、北山王の次男とされる「真松千代(ままちぢよ)」が世之主(よのぬし=島主)として島を治めていました。
この神社は明治時代、城跡に島の守り神として世之主を祀る神社として建立されました。標高約140mの丘陵に位置し、南は与論島と沖縄本島北部が眺望でき、北は徳之島を見渡せる丘の頂上に築かれています。
島内には2つの「世之主神社」が存在しますが、知名町下城にあるもう1つの世之主神社は、世之主が誕生した場所であるとされ、出産の際に産湯を沸かしたと伝わる「かまど石」がご神体として祀られています。
内城の世之主神社は世之主の居城跡に建てられていますが、この城は「マサ」と呼ばれる花崗岩が風化した山を削り、5段の平場を持っている山城です。城壁には石灰岩が積まれていますが、この近くでは石灰岩は採取されないことから、別の場所から運ばれてきたものではないかと推測されています。優れた建築家であった重臣の後蘭孫八(ごらんまごはち)が築城したとの伝承もあります。
毎年11月頃には、世之主没後600年に当たる2016年から始まった「世之主野外音楽祭」が開催され、島民らが琉球民謡や踊りなどを披露しています。
大変眺望が良い場所にある神社なので、元旦の初日の出を拝む場所としてもおすすめです。この場所で新年の幸せを祈りながら世之主も眺めたであろう朝日に出会い、古来の太陽信仰に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
この神社は明治時代、城跡に島の守り神として世之主を祀る神社として建立されました。標高約140mの丘陵に位置し、南は与論島と沖縄本島北部が眺望でき、北は徳之島を見渡せる丘の頂上に築かれています。
島内には2つの「世之主神社」が存在しますが、知名町下城にあるもう1つの世之主神社は、世之主が誕生した場所であるとされ、出産の際に産湯を沸かしたと伝わる「かまど石」がご神体として祀られています。
内城の世之主神社は世之主の居城跡に建てられていますが、この城は「マサ」と呼ばれる花崗岩が風化した山を削り、5段の平場を持っている山城です。城壁には石灰岩が積まれていますが、この近くでは石灰岩は採取されないことから、別の場所から運ばれてきたものではないかと推測されています。優れた建築家であった重臣の後蘭孫八(ごらんまごはち)が築城したとの伝承もあります。
毎年11月頃には、世之主没後600年に当たる2016年から始まった「世之主野外音楽祭」が開催され、島民らが琉球民謡や踊りなどを披露しています。
大変眺望が良い場所にある神社なので、元旦の初日の出を拝む場所としてもおすすめです。この場所で新年の幸せを祈りながら世之主も眺めたであろう朝日に出会い、古来の太陽信仰に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
住所 | 〒891-9131 鹿児島県大島郡和泊町内城962 |
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アクセス | 沖永良部空港から車で約20分/和泊港から車で約16分 |
6 拝山神社
伝説の開拓者、マチブタの神話が息づく聖地
その昔、この神社が建つ芦清良(あしきょら)集落の統治者であった「マチブタ」という名の豪族を祀る神社です。
マチブタは土地を開拓し、水田開発をした伝説の人物で、言い伝えでは200年も生きたとされ、長生きの神様や力持ちの神様として祀られています。 この神社が祀られている丘にはその昔大木が繁っていましたが、明治41年~大正6年ごろにかけて、集落の衛生設備工事や酒造所建設の材木とするため、この地の大木らを伐採してしまいました。その後、拝山の上空には赤い火玉が見えるという流言が発生し、同時期には不思議にも毎年若い青年らが多数死亡したため、集落民は恐怖と不安に襲われる日々を過ごすこととなります。 そこでこの地に神社を建立する気運が高まり、境内整備をするためにこの丘の頂上にあった墓を掘り出したところ、遺骨や土器の破片が見つかり、集落民によって丁重に洗い清められ安置されることになりました。このような言い伝えとともに、現在もこの神社は無病長寿の神様として崇められています。
昭和30年代まではこの集落でもまだコメ作りが盛んに行われており、当時は1月・5月・9月には例祭も催され大変賑やかだったそうです。現在は当時の沖永良部島の光景や島民の生活を後世に伝える場所として、集落の方々に大切にされています。
近くには「江戸時代の地下ダム」もありますので一緒に巡ってみてください。
マチブタは土地を開拓し、水田開発をした伝説の人物で、言い伝えでは200年も生きたとされ、長生きの神様や力持ちの神様として祀られています。 この神社が祀られている丘にはその昔大木が繁っていましたが、明治41年~大正6年ごろにかけて、集落の衛生設備工事や酒造所建設の材木とするため、この地の大木らを伐採してしまいました。その後、拝山の上空には赤い火玉が見えるという流言が発生し、同時期には不思議にも毎年若い青年らが多数死亡したため、集落民は恐怖と不安に襲われる日々を過ごすこととなります。 そこでこの地に神社を建立する気運が高まり、境内整備をするためにこの丘の頂上にあった墓を掘り出したところ、遺骨や土器の破片が見つかり、集落民によって丁重に洗い清められ安置されることになりました。このような言い伝えとともに、現在もこの神社は無病長寿の神様として崇められています。
昭和30年代まではこの集落でもまだコメ作りが盛んに行われており、当時は1月・5月・9月には例祭も催され大変賑やかだったそうです。現在は当時の沖永良部島の光景や島民の生活を後世に伝える場所として、集落の方々に大切にされています。
近くには「江戸時代の地下ダム」もありますので一緒に巡ってみてください。
住所 | 〒891-9211 鹿児島県大島郡知名町芦清良(あしきょら) |
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関連サイト | 電子書籍:知名町の子どもたちが再発見したわたしたちの宝もの 江戸の地下ダム |
7 はみやま神社
千本鳥居が連なる高台の神社
8 世並蔵神社(四並蔵神社)
島西部を支えた豪族伝説を今に伝える地域信仰の場所
世並蔵神社は、中世のこの地を治めた豪族である「ユナンドガナシ」という人物を祀る神社です。後世、ユナンドガナシには世並蔵(よなみぞう)という漢字があてられるようになり(※)、徳時集落には世並蔵にまつわる多くの豪族伝説が伝えられるようになりました。
神社のあるこの場所は世並蔵の住まいが構えられていた場所とされています。当時の世並蔵は学問や武道、病気の治療など多岐にわたる知恵に優れ、多くの住民の暮らしを支えたことから、その影響は沖永良部島西部の広い地域に及んだと言われています。 住民たちはその徳に感謝し、「地蔵(ジーグラ)」と呼ばれる場所を作り、穀物などを納めて世並蔵への思いを大切に守り続けました。その後、明治時代の神仏分離令によって神社が創建され、産業や安産、武神として広く敬われるようになったのが、この世並蔵神社のはじまりです。
毎年1月20日と8月20日には、賑やかな大祭が行われ、地域の人々が世並蔵神社に集まります。1月20日には奉納グラウンドゴルフ大会が、8月20日には伝統的な奉納相撲大会が開催され、いずれも地域の重要な行事として、多くの人々に親しまれています。
また、神社の境内では地域住民が中心となり、美化活動を行っています。この場所は島民にとって、日々の心の安らぎの場でもあります。
伊勢神宮の神官によると、島全体を巡る地下の洞窟が龍脈となり、神社から「気」が流れ出ていると伝えられています。 世並蔵神社は地域の大切な文化を育んできた場所であり、住民たちの手によって守られ、未来へと受け継がれています。
(※)文献によっては四並蔵という漢字があてられていることもあります。
神社のあるこの場所は世並蔵の住まいが構えられていた場所とされています。当時の世並蔵は学問や武道、病気の治療など多岐にわたる知恵に優れ、多くの住民の暮らしを支えたことから、その影響は沖永良部島西部の広い地域に及んだと言われています。 住民たちはその徳に感謝し、「地蔵(ジーグラ)」と呼ばれる場所を作り、穀物などを納めて世並蔵への思いを大切に守り続けました。その後、明治時代の神仏分離令によって神社が創建され、産業や安産、武神として広く敬われるようになったのが、この世並蔵神社のはじまりです。
毎年1月20日と8月20日には、賑やかな大祭が行われ、地域の人々が世並蔵神社に集まります。1月20日には奉納グラウンドゴルフ大会が、8月20日には伝統的な奉納相撲大会が開催され、いずれも地域の重要な行事として、多くの人々に親しまれています。
また、神社の境内では地域住民が中心となり、美化活動を行っています。この場所は島民にとって、日々の心の安らぎの場でもあります。
伊勢神宮の神官によると、島全体を巡る地下の洞窟が龍脈となり、神社から「気」が流れ出ていると伝えられています。 世並蔵神社は地域の大切な文化を育んできた場所であり、住民たちの手によって守られ、未来へと受け継がれています。
(※)文献によっては四並蔵という漢字があてられていることもあります。
住所 | 〒891-9222 鹿児島県大島郡知名町徳時(とくどき) |
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アクセス | 沖永良部空港から車で約32分/和泊港から車で約26分 |
駐車場 | あり |
GOAL!
【御朱印について】
近年、「沖永良部島で御朱印がもらえる神社を紹介して欲しい」というお問合せを頂戴することも増えてきました。
沖永良部島を含む琉球奄美の信仰は元来自然崇拝と先祖信仰であるため、本州の神道や仏教由来の神社仏閣とは宗教的に異なる価値観を持っています。
琉球・奄美地方の宗教観には、石や太陽などの自然信仰やノロ・ユタ信仰、島に所縁のある偉人(王族や歴史上の人物など)や先祖をあがめる想いが根幹にあります。薩摩藩や明治時代の日本政府の布教により、神道や仏教も一定の広まりは見せたものの、現在もなお神仏信仰よりも琉球由来の信仰にもとづく文化への敬意のほうが強い風土です。
このような背景があるため、いわゆる「神仏とのご縁の記録」を表すとされる御朱印を出す宗教風習も深くは定着しておらず、各神社には常駐する神職の方や神主さんなどもいません。
神社を訪れる際には、御朱印集めを目的に巡るというよりも、自然崇拝の島ならではの神社全体の雰囲気などを散策の一環で巡ってみてくださいね。