観光スポット
よのぬしのはか
世之主の墓
世之主伝説が語る島の宝
「世之主の墓」は県指定文化財としての呼び名です。沖永良部島内では「ウファ」とも呼ばれており、14~15世紀半ごろにこの島を治めていたとされる『えらぶ世之主』の墓と伝えられており、歴史上とても貴重な文化財です。
今から600年以上前、現在の沖縄県である琉球国は「北山(ほくざん)」「中山(ちゅうざん)」「南山(なんざん)」の三つの勢力に分かれて覇を競っていた三山時代(さんざんじだい)でした。その頃の沖永良部島は伝承では北山の支配下にあったとされ、北山王の次男である「真松千代(ままつちよ)」が島主であったとされています。
この墓はその世之主を祀ったものであり、奄美群島随一の規模を誇る琉球式のトゥール墓です。「トゥール」とは、岩壁に掘り込まれた横穴や、自然の崖下洞穴などを墓室とした、江戸時代以前の奄美群島の風葬墓のことを指します。
沖永良部島ではこの世之主の墓をはじめ、規模や石積みの構造美など、他の島では目にすることのできない特徴的なトゥール墓を見ることができます。
この墓は、悲劇の死を遂げた世之主を悼み、島民により建立されたと伝わります。琉球の北山・中山・南山の戦いが激しくなり、やがて中山は南山と北山を滅ぼしました。
沖永良部島にもある日とうとう琉球から中山の船がやって来ますが、世之主にはその船が和陸(和解)にやってきたものなのか、侵略にやってきたものなのかが判断できませんでした。
世之主の妻は中山にルーツを持つ姫であったためこの船は和睦船だったのですが、世之主が遣いにやった部下が間違えて戦船だと伝令ミスをしてしまい、それを受けた世之主は島を守るために妻子共ども自害してしまったと語り継がれています。
墓は第一石門、第二石門、納骨堂からなっており、人間は死ぬと元に帰るという琉球思想から、墓全体が女性の子宮を型どっています。納骨堂には世之主と妻子の骨が納められ、四隅には家来であった四天王と呼ばれる豪族の骨も分骨されたと語り継がれています。
今から600年以上前、現在の沖縄県である琉球国は「北山(ほくざん)」「中山(ちゅうざん)」「南山(なんざん)」の三つの勢力に分かれて覇を競っていた三山時代(さんざんじだい)でした。その頃の沖永良部島は伝承では北山の支配下にあったとされ、北山王の次男である「真松千代(ままつちよ)」が島主であったとされています。
この墓はその世之主を祀ったものであり、奄美群島随一の規模を誇る琉球式のトゥール墓です。「トゥール」とは、岩壁に掘り込まれた横穴や、自然の崖下洞穴などを墓室とした、江戸時代以前の奄美群島の風葬墓のことを指します。
沖永良部島ではこの世之主の墓をはじめ、規模や石積みの構造美など、他の島では目にすることのできない特徴的なトゥール墓を見ることができます。
この墓は、悲劇の死を遂げた世之主を悼み、島民により建立されたと伝わります。琉球の北山・中山・南山の戦いが激しくなり、やがて中山は南山と北山を滅ぼしました。
沖永良部島にもある日とうとう琉球から中山の船がやって来ますが、世之主にはその船が和陸(和解)にやってきたものなのか、侵略にやってきたものなのかが判断できませんでした。
世之主の妻は中山にルーツを持つ姫であったためこの船は和睦船だったのですが、世之主が遣いにやった部下が間違えて戦船だと伝令ミスをしてしまい、それを受けた世之主は島を守るために妻子共ども自害してしまったと語り継がれています。
墓は第一石門、第二石門、納骨堂からなっており、人間は死ぬと元に帰るという琉球思想から、墓全体が女性の子宮を型どっています。納骨堂には世之主と妻子の骨が納められ、四隅には家来であった四天王と呼ばれる豪族の骨も分骨されたと語り継がれています。
基本情報
住所 | 〒891-9131 鹿児島県大島郡和泊町内城(うちじろ) |
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電話番号 | 0997-92-0300(和泊町教育委員会事務局) |
定休日 | なし |
料金 | 無料 |
アクセス | 沖永良部空港から車で約20分 |
駐車場 | なし |
備考 |
<和泊町の世の主の墓の利用制限について> 世の主墓史跡につきまして、石積みの崩落が発生し、見学者の安全を優先するため史跡への入場を制限させていただきます。外の庭までの入場と史跡前方や東側道路の石垣を外側からの見学は可能です。何卒、ご理解の程お願いいたします。入場再開の目処が立ちましたら、お知らせさせて頂きます。 |